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第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興

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第十二章 戦後の体育会と学生研究会

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一 体育会の復活

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 昭和二十年八月十五日終戦を迎えた際には、昭和十七年体育会を吸収した学徒錬成部すら二十年四月には廃止の運命を甘受せざるを得なかったのであり、学苑の体育施設は、幸いに残存したものでも到底直ちに使用し得る状態にはなかった。復活後の体育会主事に就任した吉井篤雄は、当時を回想して次のように述べている。

戸塚球場は甘藷畑、スタンドは毀れ、鉄骨は曲り、その下には幾つもの壕舎(これは教職員用のスイート・ホームであつたのだ)、右翼の道路寄に粗末な板囲いの小屋が一つ、これは風呂で、焼残りの木材で沸し貴賤を問わず恩沢に浴したものである。

織田〔幹雄〕、西田〔修平〕、南部〔忠平〕等々世界的名選手を幾多輩出した学院グラウンドは、塹壕、壕舎、蛸壺、甘藷蔓、あかざにペンペン草、焼トタン、ドラム缶に焼夷弾殻、見る影もない哀れな廃墟、入口のプール傍には炭焼竈が築かれ、秋田から来た山男が、配給の「のぞみ」を鉈豆煙管でふかし乍ら炭を焼いていた。

東伏見グラウンドは、数ケ所の爆弾痕と中島飛行機製作所で掘つた防空壕の盛土が、堆く盛上げられ、葦は生え放題、あのグリーン・ハウスは早稲田大学工芸美術研究所なるものに占領され、昔日の名残を留むるは、僅かに水泳プール位のものであつた。……

今の体育館、昔の武道館は戦時中軍隊の屯所、二百余人が宿泊し、終戦後の十月頃迄残つていたのと、終戦間際の津々浦々からの召集兵であつたので、不規律なこと言語道断、あたら建物もすつかり荒廃、のみならず進駐軍に接収される予定との風説に周章狼狽した。 (「復活当時の思い出」早稲田大学体育局編『半世紀の早稲田体育』 六五頁)

 しかし、学苑における体育会復興の動きは迅速であった。終戦三ヵ月後の十一月二十二日、理事会において次のような「体育会規程」の制定が決議され、更に一週間後の二十九日、同じく理事会において「体育会長ニ伊地知純正氏ヲ嘱任スルコト」が決定、ここに体育会の復活が実現した。

体育会規程

第一条 本大学ニ体育会ヲ設ケ学生ノ体育ノ奨励、健康ノ増進、運動競技ノ指導監督ニ当ラシム

第二条 本会ニ体育及運動競技ノ種類ニ依リ各部ヲ置ク

前項ノ各部々員ハ本大学ノ学生トス

第三条 本会ニ会長及副会長各一名ヲ置ク

会長ハ本会ヲ代表シ会務ヲ統理ス

副会長ハ会長ヲ輔佐シ会長事故アルトキハ之ヲ代理ス

会長及副会長ハ教職員中ヨリ部長会議ノ推薦ニ依リ総長之ヲ委嘱シ其ノ任期ヲ三年トス但シ重任ヲ妨ゲズ

第四条 本会ニ参与ヲ置キ重要事項ニ参画セシム

参与ハ教務部長、経理部長、庶務部長及学生課長ヲ以テ之ニ充ツ

第五条 各部ニ部長一名ヲ置キ部務ノ掌理並ニ当該部員ノ指導監督ニ当ラシム

各部長ハ教職員中ヨリ各部ノ推薦ニ依リ会長之ヲ委嘱シ其ノ任期ヲ三年トス但シ重任ヲ妨ゲズ

第六条 本会ニ主事一名、書記若干名ヲ置キ事務ヲ処理セシム

第七条 各部ハ其ノ必要ニ応ジ顧問三名以内ヲ置キ部長ノ諮問ニ答へ重要事項ニ参与セシムルコトヲ得

顧問ハ当該部員タリシ校友中ヨリ部長ノ推薦ニ依リ会長之ヲ委嘱ス

第八条 各部ハ其ノ必要ニ応ジ監督一名乃至数名ヲ置キ部員ノ技術ノ訓練並ニ心身ノ鍛錬ニ当ラシムルコトヲ得

監督ハ当該部員タリシ校友中ヨリ部長ノ推薦ニ依リ会長之ヲ委嘱ス

第九条 各部ニ委員若干名ヲ置キ部長ノ指示ニ従ヒ部務ヲ処理セシム

委員ハ部員ノ互選ニ依リ部長之ヲ委嘱シ其ノ任期ヲ一年トス但シ再任ヲ妨ゲズ

第十条 本会ノ費用ハ本大学ノ補助金、寄附金、競技観覧料及其ノ他ノ収入ヲ以テ之ニ充テ毎年度ノ体育会予算ニ基キ各部ニ割当ツルモノトス

前項ノ体育会予算ハ各部提出ノ見積書ニ依リ会長之ヲ編成シ部長会議ノ議ニ附シ之ヲ決定ス

各部ガ競技観覧料トシテ収得シタル金額ハ総テ本会ニ帰属ス

各部ガ特ニ当該部ニ対スル寄附トシテ収得シタル金品ハ当該部ニ於テ適宜之ヲ使用スルコトヲ得

第十一条 各部ハ部員ヨリ会費ヲ徴収セズ但シ合宿、旅行其ノ他ノ為特ニ必要トスル金額ハ之ヲ徴収スルヲ妨ゲズ

第十二条 本会及各部ノ会計収支ハ総テ本大学会計課ニ於テ之ヲ取扱フモノトス

第十三条 各部ニシテ学外ノ体育又ハ競技団体ニ加盟セントスルトキハ予メ会長ノ同意ヲ経ルコトヲ要ス

第十四条 各部ニ所属スル施設又ハ器具ヲ当該部員ニアラザル学生ガ臨時使用セントスルトキハ予メ当該部ニ申出デ其ノ承諾ヲ得ルコトヲ要ス

前項ノ申出ヲ受ケタル各部ハ特ニ支障アル場合ノ外之ヲ承諾スベキモノトス

附則

一、本会各部以外ノ体育及運動競技ハ各学友会又ハ教務部学生課之ヲ管理ス

二、本会創設ノ際ニ於ケル会長及副会長ハ第三条第四項ノ規定ニ依ラズ総長之ヲ委嘱ス

三、本会創設後最初ニ就任シタル会長、副会長及各部長ノ任期ハ昭和二十三年三月ヲ以テ終了スルモノトス

 尤も最初のうちは、吉井の思い出によれば、「掲示を出して、体育会が復活したから各運動部関係者は至急連絡するようにと幾ら呼びかけても、さつぱり反響がない」(『半世紀の早稲田体育』六四頁)といった状態であり、また武道館がGHQに接収されるとの風説に対して武道館の名を急遽体育館に改めるなどという心労も伝えられている(伊地知純正「武道館改名由来記」同書三―四頁)。その上GHQの占領政策により、柔道、剣道、弓道等の武道や軍事色の強い射撃等が一切禁止となり、体育各部一斉の復活は不可能であった。それでも、二十二年までには、禁止された柔道、剣道、弓道および射撃の四部を除き、十七年十月の体育会解散時に存在していた二十五部すべてが復活し、この他にフェンシング、軟式野球、軟式庭球の三部が戦後新たに体育会に加わったので、この年七月現在、体育会二十八部の総部員数は一、一〇一名を数えるに至り、戦後の早稲田スポーツの体制はひと先ず整ったのであった。

 その後、二十二年十一月には「学生体育の正しい在方を研究し、その健全なる発達と向上に資することを目的と」して、教職員、体育各部部長・学生代表委員、ならびに学生自治会中央執行委員それぞれの代表者から成る「体育審議会」が、二十三年六月には「体育会規程改正案起草委員会」が、また九月には「体育委員会」が設置され、新制大学発足に向けて学苑体育のあり方が検討されることになった。

二 体育各部の再出発

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 野球部 既述のようにグラウンドは荒廃に委せられていたにも拘らず、部員は幸いにも戦災を免れた合宿所に終戦直後から集まり始め、早くも十月には練習を再開した。同月二十八日には進駐軍接収下の神宮球場で六大学OBの紅白試合が行われたが、翌十一月十八日には同球場で、OB・現役一体のオール早慶戦が戦後最初の早慶戦として挙行され、三対六で慶応に勝利を譲ったものの、六大学リーグ戦復活への意気を示し、当時慶大の選手として活躍した大島信夫の次の一文に窺われるように、単に両学苑だけでなく、国民全体に夢を与え希望を生起させたのであった。

終戦直後の昭和二十年十一月十八日、神宮球場で、世間をアッといわせ、明るくした試合もまた早慶戦であった。……無名に近かった岡本忠之投手や蔭山和夫遊撃手が、すい星のように飛びだしてきたのもこの試合からであった。軍靴に戦闘帽姿で、引き揚げ船から駆けつけたのは、やはり早大先輩の若原正蔵さんではなかったか。それに反して慶応側は灰山元治、土井寿蔵、勝川正義、山下実、宇野光雄、大館盈六、白木義一郎、別当薫さんに私などの顔がそろって、数日間は日比谷公園や三田綱町で練習することもできた。食糧と野球用具の両方を備えた拠点が、銀座七丁目(現日航ビル斜め前)にあったからである。そんなころの暮れのある日、東大の山崎喜輝君が私に「早慶ばかりで試合をやらないで、オレ達も仲間に入れてくれ」と談じこんできた。この情熱と気迫があったればこそ、東大は翌春(二十一年)の戦後初のリーグ戦で、史上初の二位に輝くのである。

(『毎日新聞』昭和五十四年十一月十五日号)

 東京六大学野球連盟は二十一年三月復活し、リーグ戦が再開されることとなった。この年春のリーグ戦は各校一回総当りの一本勝負、球場は上井草と後楽園の二球場といういささか変則的な形で行われた。けれども秋には各校二回総当りとなり、神宮球場の使用も許され、またリーグ戦開始前に、戦前の摂政杯に代って天皇杯の下賜があった。このシーズン、学苑野球部は慶応に連勝したのをはじめ、十一戦十勝の好成績を収め、戦後の初優勝に輝いた。また、同年秋季リーグ戦終了後、東京六大学野球連盟、東都大学野球連盟、関西六大学野球連盟の各優勝校により大学野球の王座決定戦が行われることになり、この年には早稲田対中央大学の試合のみが実施されて、関西の覇者同志社大学との対戦は中止となったが、翌二十二年以降は毎年王座決定戦が挙行された。

 学苑野球部は二十二年中は不振に喘ぎ、殊に秋季リーグ戦では最下位となったが、勝点制が採用された二十三年春のシーズンには、勝点四を上げ、同勝点の明治を優勝決定戦で破り、愁眉を開いた。

 二十四年二月十日、学苑野球部の、また広く日本学生野球の育ての親安部磯雄が逝去した。野球部は稲門クラブと共催で三月二十六日戸塚球場で追悼式を挙行し、更に安部の遺業を記念して戸塚球場と合宿所とをそれぞれ安部球場、安部寮と改称した。また、六大学連盟と各校OB連盟も同月二十七日後楽園球場で追悼式および追悼試合を行った。

 庭球部 戦前多くの名選手を輩出した庭球部も、部の再建には先ずコートの整備から着手しなければならなかった。二十二年に主将となった佐治準治は当時を次のように回想している。

先輩、同僚たちとコートの再建、クラブハウスの建築、諸先輩の力にたよりながら、食糧難に泣きながら、よくがんばったものである。「リーグ戦が復活する? こんなにバラがへっているのに、出来るわけがない。」私はよくこぼした。練習とともに、食糧の買い出しも大きな仕事の一つだった時代である。テニスのシャツを買っても、試合が終ると、翌日売りはらった。ラケットが曲っても、買うことも出来ず、そのまま早慶戦に出場したこともあった。

(「不足時代をのり切る」『早稲田大学庭球部七十周年誌』 五一三頁)

こうした状況下では、必ずしも十分な成績を収め得なかったとしても無理からぬことであり、二十一年春に再開された早慶戦でも、二十三年秋までに春秋合せて六回の対戦を行ったが、二勝四敗に終っている。

 漕艇部 漕艇部の艇庫は幸運にも空襲の被害を免れたものの、二十一年五月類焼の厄に見舞われて焼失してしまった。物資難の中で被った災害は大変な痛手であったが、OB・部員一体となって再建に努め、バラック同然のものではあったが、九月二十日新艇庫の上棟式を行うことができた。こうした悲運の後遺症と言うべきであろうか、二十二年五月十一日に吾妻橋―白鬚橋間で行われた戦後第一回の早慶レガッタ・エイトでは差四艇身という大敗を喫したが、翌年には新艇の進水を見、九月十八日の早慶競漕では前年の雪辱を果し、またインター・カレッジにも優勝した。

 相撲部 相撲部は戦後初めて監督制を導入、北島勝之輔が初代監督に就任した。また二十一年から翌年にかけて東日本学生相撲連盟、日本相撲連盟、日本学生相撲連盟が相次いで組織され、各種大会実施の態勢が整った。相撲部は夙に二十一年これら大会に参加し、同年の東日本学生相撲大会、二十二年の同大会個人、同年の東日本選抜八大学リーグ戦、二十三年の東日本学生相撲大会および関東六大学リーグ戦個人に優勝し、スタートはきわめて好調であった。

 水泳部 東伏見のプールは、シャワー設備や跳込み台が戦災で使用不能となったものの、プール本体には殆ど被害はなく、部再建の舞台となった。全日本学生水上選手権大会は二十一年から開始され、学苑チームは戦後初の優勝を飾った。二十二年には早慶対抗水上競技会が再開され、この年と翌二十三年とに学苑が連勝を遂げた。また、競泳だけでなく、水球においても二十二年に五大学水球リーグ戦、東西学生選抜、関東学生水球大会に勝利を収めた。

 競走部 戦前織田、南部らの世界的名選手を世に送った競走部にも、戦争は大きな影を落した。二十一年少数の部員が千葉に合宿を行い、再建に着手したが、必ずしも満足すべき成果は得られなかった。例えば、同年九月に再開された早慶戦では十九対三十八の大差で敗れ、大正十三年以来の連戦連勝の記録に終止符を打った。その後部員の数も増加し、練習に励み、二十三年十月の第三回国民体育大会では鈴木義博が走高跳で戦後最高の一メートル九四を記録して優勝したが、全体としては不本意な成績が続いた。

 ラグビー蹴球部 終戦の翌年早々内田堯、芦田治一ら七、八名の部員が集まり、学苑ラグビー蹴球部の復興を宣言し、部員の上京をうながすとともに新部員の募集を開始した。戦災の被害の大きかった関東では関西に比してラグビー戦の復活が遅れ、前年十一月二十三日、早稲田や慶応の在京OB、学生を主体とするラグビー試合を行った際の早慶OB戦では、早稲田側の人数が不足し、他校選手の応援を求めて対戦、六対四十六の大敗を喫した有様であった。食糧・物資の不足は二十二、二十三年に至るまで解消されず、二十一年の戦後初の早・慶・明・東・立の五大学リーグ戦では二勝二敗の成績で辛うじて最下位を免れたのであった。二十二年夏には米どころの秋田で合宿を敢行したが、「最後には赤字を出し、全員の有金をはたいても足らず、内田〔主将〕と加藤〔俊彦〕主務が人質となって居残る」(『早稲田ラグビー六十年史』九四頁)のを余儀なくされた。また、この年シーズンに先立つ九月二十四日、戦場に散華したOB・出陣学徒の慰霊祭を東伏見グラウンドで挙行したが、供えることができたのは小さなカボチャ一個に過ぎなかった。このような厳しい状況下にも拘らず、二十二年のシーズンには明治に敗れはしたが十勝一敗の成績を残すことができ、「従前の姿に戻りつつあること」(同前)を示した。この成果は二十三年にも引き継がれ、早慶戦では三対三の引分けに終ったものの、明治には十六対五で雪辱し、その他の試合では対戦相手を全く寄せ付けず、戦後最初の全国制覇を成し遂げて、部創立三十周年を飾った。

 ア式蹴球部 ア式蹴球部も戦争で九名のOB・出陣学徒を失ったが、夙に二十年秋にはOBを含む学苑チームが試合を行った記録があり、翌二十一年六月二十三日には岸記念体育館で部員総会が開催されて部活動再開が正式に決定されている。当時はユニフォームやスパイクは勿論、ボールさえ満足なものはなかなか入手できなかったが、青山東宮御所近くのグラウンドで厳しい練習を行った結果、同年秋に挙行された戦後第一回の関東大学リーグ戦に四勝一分の成績で優勝し、十二月八日には関西の覇者神戸経済大学を東大球場に迎えて撃破し、日本一の座に着いた。二十二年には、六月に関東学生トーナメントで一位となり、秋には関東リーグ戦に全勝、更に東西学生王座決定戦でも関学を降し、二連覇に輝いた。しかし、二十三年は、岩谷省吾、寺島登、武田五郎、津田慶次らの有力選手が卒業したこともあり、戦後無敗の記録に終止符が打たれ、関東リーグ戦は二勝二敗一分で三位に顚落せしめられた。

 山岳部 ヒマラヤ征服という目標の達成は戦争により頓挫を余儀なくされたが、山岳部は戦後もこの素志を継承し、その第一歩として極地法による登攀技術の習得に励んだ。先ず手始めとして穂高岳北尾根征服を目標に定め、二十一年秋から物資輸送等の準備を行い、二十二年四月六日その登頂に成功した。更に同年十二月から二十三年一月にかけて北海道日高山脈ペテガリ岳に挑んだ。これは、OB「小島六郎を監督とし……隊員計十六名の国内としては比較的大規模な編成によって長大な東尾根からのペテガリ岳極地法登山(ベースキャンプ上前進キャンプ第六迄設置)」(財団法人日本体育協会編『日本スポーツ百年』五〇一頁)であった。こうして「各学校に先駆けて完全に立直りを見せた」(『半世紀の早稲田体育』一六九頁)山岳部は、二十四年にも二度目の本格的極地法登山を敢行、三月二十八日北アルプス剣岳山頂にW旗を翻すのに成功した。

 スキー部 スキー部は二十一年十二月北海道小樽における合宿練習により戦後の活動を開始し、二十二年から二十三年にかけて再開された全日本学生スキー選手権大会、全日本スキー選手権大会に参加したが、二十四年の「第二十二回インカレに誰も予想しなかった総合優勝を果たした」(川崎義治「お世話になりました」『早稲田大学スキー部五十年史』二五八頁)のを別として、「戦後新人選手のみで再編された我部は、力至らず、我部の歴史に比してみじめな成績に低迷した」(『半世紀の早稲田体育』一三八頁)と認めざるを得なかった。

 馬術部 馬術部は戦後逸速く活動を再開し、混乱した社会状況の中で、馬匹二頭を購入し、また馬術普及のため関西地方への遠征さえ行ったが、食糧事情が一向に改善されず、飼料入手難が続いたため泣く泣く自馬の売却を余儀なくされた。『早稲田大学新聞』(昭和二十一年十月十一日号)は部員の苦労を次のように伝えている。

馬のない部員の日々の練習は遠く西千葉の千葉県庁廐舎に通ふもの、玉電大橋の警視庁廐舎に通ふものなどまちまちで、その練習も馬を借用する関係上、交代して通ふことを余儀なくされ、廐作業や馬の手入れなどの勤労作業をその代償とする等、部員の苦労は嵩んでゐる。

こうした中で、二十一年から早慶戦、早慶東リーグ戦等の対校試合も復活し、二十三年には第三回国民体育大会に参加したが、戦前に比して練習量の低下は否めなかった。

 バスケットボール部 戦後の部活動は、二十年十二月八日に行われた復活第一回早慶戦を以て開始され、当時の部員は数名に過ぎなかったが、幸先よく慶応を破った。二十一年に入ると部員数も増加し、本格的練習を行うことができるようになったけれども、復活は他校に比して立ち遅れの感があり、二十一年に始まった関東学生リーグ戦等においては、二十二、二十三年と不振が続いた。

 スケート部 スケート部では、戦前不振を託ったフィギュア・スケートが先ず目覚しい成果を挙げ、二十二年一月松原湖で開催された戦後最初の全国学生氷上選手権大会で念願の初優勝を果し、更に翌年一月の同大会でも優勝、二連覇を達成した。フィギュアに続いたのはアイス・ホッケーであったが、敗戦により満州から引き揚げてきた有力選手が数多く学苑に入学した結果、二十三年と二十四年の全国学生氷上選手権大会に優勝した。かくて二十三年はフィギュアとホッケーの両競技に首位を占め、十年ぶりに総合優勝に輝いた。

 ホッケー部 戦後の活動開始の時期は必ずしも詳かでないが、昭和二十二年六月一日付『早稲田大学新聞』には、五月二十日の対商大戦が報じられているから、二十二年春には対校試合が行われるほど活発であったのは確かである。更に同年夏には浅間に合宿して実力を養い、秋に挙行された早慶戦には「世評を外に堂々と完勝した」(『早稲田大学彙報』昭和二十三年一月二十日号)。更に二十三年には、関東大学ホッケー・リーグ戦に春秋二連覇を成就した。

 卓球部 戦後初代の卓球部主務升本喜八郎は、部活動再開当時の模様を次のように回想している。

私たちはこれらの〔他部の復活を告げる〕ポスターに刺激され「卓球部復活」ののろしをあげたのです。……この呼びかけに対して、なんと二百数十名の若人が集ったのです。皆スポーツに飢えていたのですね。また戦後の虚脱状態から、なにか若人の情熱をかけるものを探していたのではないでしょうか。ところが卓球部にはまだコートもなく、ロクな部室もなく、選手さえも定っていなかったのです。やむをえず、街の卓球場に部員をつれて行って、竹内〔孟〕、益川〔㫰〕君らが主となって選手の選考をしたわけです。 (「憶い出ずるままに」『早稲田大学卓球部五十年史』 二四九頁)

こうして復活した卓球部は、二十一年秋慶応、立教、法政などとともに戦後第一回の関東学生卓球リーグ戦に参加、十戦全勝の完全優勝を果し、好スタートを切った。更にその余勢を駆って復活第一回早慶戦でも慶応を破り、十二月の復活第一回全国学校対抗をも制した。翌二十二年一月には東西優勝校対抗戦と全日本学生選手権とが開催されたが、前者で関大を十五対零で一蹴し、後者においてもシングルスとダブルスの双方で制覇した。二十二年は春季リーグ戦では立教に勝を譲ったものの、八月には全国学校対抗で二連覇を果し、秋季リーグ戦には優勝して、春秋決定戦で立教を降し、関東を制した。そして二十三年一月、前年同様東西優勝校対抗戦で関大と相見え、八対七で辛勝した。この頃「団体戦では……勝つのがあたりまえという雰囲気があり、負けると坊主頭にする習慣が……できた」(同書八二頁)という。二十三年は前年と似た展開となり、秋季リーグ戦では一位、春秋決定戦に勝って、東西優勝校対抗戦に臨み、関学大に七点をリードされたものの団体戦に粘り強さを発揮して、八対七でこれを破った。

 拳闘部 戦後ボクシングはアメリカ軍からの競技用具の払下げなどがあって急テンポで復活し、二十一年十月には全日本選手権が開催され、二十二年には早慶明三大学リーグ戦も再開された。二十二年の全日本選手権ではフェザー級に後藤秀夫が、ジュニア・フライ級に野呂昭二が優勝し、二十三年には同じく後藤、野呂が選手権を保持した他、福島昇がフライ級を制した。またこの年、後藤と福島は第三回国民体育大会に東京代表として出場し、全試合に勝利を収めた。更に三大学リーグ戦においても、慶明両校を降して優勝した。

 応援部 戦後の応援部の活動は、二十一年の六大学野球春季リーグ戦に開始した。監督野中虎之助は部活動再開について、「〔リンゴ事件で応援部が解散され、その後戦争の影響を被り〕サツパリしない割り切れない気持の応援を続けて来た。それが今春来、純真な学生の心を動かして流れ出る声援を一束として母校代表選手に贈る事が出来得るのは一ト昔以来の事なのだ」(『早稲田大学新聞』昭和二十一年十一月一日号)と語っている。しかし、この時は部の陣容も器材も未だ整っていなかったので、秋季リーグ戦には一万円を投じて縦九尺・横一丈三尺五寸の大応援旗を新調し、早慶戦前日の十一月一日入魂式を行った甲斐あってか、前述の如く野球部は早慶戦に連勝し、優勝できたので、校旗を先頭に神宮から学苑まで大行進を敢行した。『早稲田大学新聞』(昭和二十一年十一月十一日号)はその模様を、「すれ違ふジープからカメラがむけられ、追い越してゆく大型トラツクの上ではGIが両手をちぎれんばかりに振つてゐる、言葉は通ぜぬ彼等にも吾等の勝利の雄叫びは自然と通づるのだらう」と伝えている。

 二十二年に入ると部の陣容も整い、野球以外の競技にも応援を行い得るようになった。また、五月には六大学各校の応援部により応援団連盟が結成され、応援部の一層健全な発展が計られた。六月の早慶戦前には、配布切符の僅少を理由に、学生大会で早慶戦ボイコットが決議されたが、実際の影響はなく、試合当日スタンドは学生で満員となり、応援部の活動が停滞するには至らなかった。そしてこの秋、戦後初の応援歌の募集が行われ、「ひかる青雲」(岩崎厳詞・古関裕而曲)が入選した。二十三年夏には、創部以来初めての合宿が日光で行われている。

 レスリング部 二十一年六月一日付『早稲田大学新聞』は学苑レスリング部について、斯界の「大本山たる貫禄を示してる」と記しているが、これはあながち誇張ではなかった。レスリングの全日本選手権大会と関東大学リーグ戦とは共に二十一年に始まったが、学苑チームはこれらにおいて大いに健闘したからである。先ず前者について見ると、二十一年にはフリースタイルのフライ、バンタム、フェザー、ライト、ウェルター、ミドルの六階級のうち、フライ、フェザー両級を除く四階級を制覇し、二十二年には二階級制覇にとどまったが、二十三年再びフェザー、ライト以外の四階級を制した。一方関東大学リーグ戦では、学苑は慶応、明治とともにその一部に参加したが、二十一年秋この両校を破って初優勝を果した後、二十二年春秋、二十三年春秋と優勝を重ね、五連覇の偉業に輝いた。

 空手部 戦後GHQの命令によって柔道等が禁止されたことは前述したが、この時空手も危く禁止されるところであった。ところが、部長の「大浜は空手をオリエンタル・ボクシングと称し、むしろ、中国と東洋一帯を含めた西洋ボクシングと軌を一にしたスポーツである、と説いて、禁止の対象からはずしてしまった」(大浜信泉伝記編集委員会編『大浜信泉』一九二頁)。

 二十年秋空手部復活の準備が進められ、二十一年四月には富沢俊一郎ら四名の部員による戦後の稽古が開始、七月には、「少ない人数でしたが、復活、再建、に意気あがる戦後始めての佐渡合宿」(富沢「戦後第一回の佐渡合宿」『早稲田大学空手部の五十年』九七頁)が行われた。二十二年になると、慶応との交歓稽古が再開され、また関西各大学選抜の有段者との交歓稽古も行われるようになった。二十三年には早慶など五校によって関東学生空手連盟が組織され、秋にはその演武大会が催され、連盟加盟校ばかりでなく、法政、明治、学習院等からも参加があった。

 体操部 戦争による体操部の痛手は大きく、器械用具のすべてを失ってしまったため、戦争の被害の軽微だった他校に比して、戦後の活動にやや立ち遅れの感があったのは否めなかった。それでも、二十一年に第一回国民体育大会に参加したのを皮切りに各種大会に出場して、活発な部活動を展開し、二十二年には全日本高専大会に、翌二十三年には全日本インター・ハイに優勝を果し、また同年開催された戦後初の早慶戦にも慶応を降すことができた。

 排球部 二十年十一月早くも現役・OBが集まって紅白試合を催し、また同月開催された関東排球大会にも参加したが、二十一年二月正式に戦後第一回の排球部総会が開かれ、部活動が再開された。尤も、芋畑になっていたコートの整備に先ず着手しなければならなかったが、四月には専用コートも整い、また同月初め合宿をも敢行した。五月には、早慶戦、関東大学リーグ戦が共に再開され、前者では三対二で慶応を破り、戦後の初勝利を収めた。二十二年には早慶戦で慶応を破ったのをはじめ、リーグ戦に春秋二連覇を果した。更に二十三年には早慶戦に三連覇を遂げ、春季リーグ戦にも一位となり、その余勢を駆って七月開催の第一回全日本大学選手権大会にも参加して決勝戦で関学を二対零で降し、戦後初の学生日本一の座を占めた。

 自動車部 戦中軍の徴発を免れた車輛二台も空襲により灰燼に帰したので、終戦時には部所有の自動車は一台もなかった。しかも、戦後当分は学生が自由に車に乗れるような社会状況ではなかったにも拘らず、二十一年六月頃から再建に着手し、夏になるとフォード一台を、管理依託という形ではあったが、ともかく利用することが可能となった。二十二年の新学期には、戦後初めて部員の募集を行い、部の体制も漸く整い、二十三年になると学生自動車連盟にも加入し、対外的活動にも乗り出すこととなった。

 米式蹴球部 太平洋戦争中敵性スポーツとして逼塞せしめられていた米式蹴球部の活動は二十一年に再開された。例えば十一月二十六日には戸塚球場で明治との試合が行われ、四十六対零という大差で勝利を収めている。更に二十二年一月十八日にはオール早慶戦が催され、二対十九で敗北したが、この年からリーグ戦にも参加するようになった。

 ヨット部 戦後のヨット競技は、二十一年十一月、全日本選手権と全日本学生選手権とを兼ねて琵琶湖で挙行された第一回国民体育大会に始まるが、終戦時に二十隻以上のヨットを所有していた学苑ヨット部は、敗戦の混乱の中にそのすべてが持ち去られたり、焼却されたりしたため、出場できなかった。しかし、大学当局やOBの援助を得て二十二年春から再建に着手し、先ずその年には早慶戦を復活して勝利を収め、更に二十三年には全日本学生選手権にも出場できるようになった。一方OBもこの年の全日本選手権で健闘し、犬伏一郎がディンギー級で優勝した。

 ハンドボール部 ハンドボール部は、終戦後間もなく復員した小西清海らによって再建され、二十一年には関東学生リーグ戦を制した。同年十月十一日の『早稲田大学新聞』は、「春からの活動は体育会中最も目覚し」いとその活躍振りを伝えている。更に二十二年に入るとまさに黄金時代と言うにふさわしく、春秋に亘りリーグ戦を制覇、秋季リーグ戦後には西下、関西の覇者大阪歯科医学専門学校を十対八の成績で破って日本一の王座に着き、公式戦を全勝で飾った。二十三年も春季リーグ戦に優勝し、黄金期を持続した。

 フェンシング部 剣道等の武道は、既述の如く、GHQにより活動を禁止されたが、学苑に復帰してきた剣道部員の一部は、剣道に代るものとしてフェンシングに注目し、新たにフェンシング部を興して、二十一年四月体育会に正式加盟し、滝口宏が初代部長に就任した。尤も、恐らく敗戦後の混乱のためであろう、本格的な活動が始められたのは同年秋以降と推定される。同年十二月十一日付の『早稲田大学新聞』は、「フエンシング部の新設」と題して、

学園に旧剣道部員を主体としてフエンシング部が発足した。すでに道具も揃ひ、近く練習を開始することになり、去る七日第一回総会が体育館内で行われた。

と報じている。こうして発足したフェンシング部は早速大日本フェンシング協会(二十三年八月日本フェンシング協会と改称)に加入し、同協会加盟校たる慶応、明治等とともに、二十三年六月関東学生フェンシング・リーグ戦を開始した。また、同年十二月には第一回早慶戦を行い、戦前以来の伝統を有する慶応を破り、大いに気を吐いた。

 軟式野球部 軟式野球は使用球がゴム製である点を除けば、硬式野球と殆ど変るところのない、日本独特の野球である。そのゴム・ボールは大正中葉に試作された後急速に全国に広まり、老若を問わずこれに親しむようになったが、ややもすれば硬式の陰に隠されて、戦前には全国的な統轄組織の結成は実現せず、それを目指す動きも戦争の激化により中止の余儀なきに至った。ところが、平和の回復とともに全国的組織結成運動が再開され、二十一年八月全日本軟式野球連盟が誕生して十一月の第一回国民体育大会に参加し、同大会を第一回全日本軟式野球大会とした。

 学苑内に軟式野球の同好者が集まり、クラブ・チームを作って練習を開始したのは、二十一年春であり、学外のチームとも連絡を取り、早くも同年秋には東京六大学軟式野球連盟を結成してリーグ戦を開始した。またそれとともに、第一回国民体育大会の大学高等専門学校の部に参加し、東京都予選から順調に勝ち進んで決勝戦では立命館と対戦し、十三対二の大差で快勝した。この時のバッテリーは、ピッチャー林和男、キャッチャー金子圭一であった。このようにクラブ結成早々に全国制覇を成就した学苑チームは、二十二年毛利亮を部長として体育会に加盟し、秋季リーグ戦に優勝するとともに、第二回国民体育大会には決勝戦で前年同様立命館を破って優勝を果した。更に、二十三年の第三回国民体育大会でも三度立命館と決勝戦を戦い、これを降して三年連続の全国制覇を果した。

 軟式庭球部 軟式庭球部が体育会に加盟し、正式な体育部となったのは昭和二十二年三月で、初代部長は末高信であったが、学苑における軟式庭球の歴史は戦後に開始したのではなく、明治三十六年学苑庭球部誕生当時の使用球はゴム・ボールであったが、既述の如く、大正九年学苑庭球部をはじめ日本庭球界が硬式に転換したため、軟式庭球は庭球界の本流から外れ、学苑庭球部からは姿を消したのである。しかし軟式愛好者は存続し、学苑生も在京八クラブに所属、慶応や東京帝大との定期戦を行っていた。その後、大正十二年に八クラブが東京軟球協会を結成してリーグ戦を開始し、翌十三年には名称を日本軟球協会と改めて、全日本選手権、東西対抗戦等を開催した。ここに、学外のクラブではなく、学校単位のチームにより各種の試合に臨み得る制度が整ったのである。次いで十四年には軟式庭球も明治神宮競技大会に参加できるようになったが、同大会に適用される競技規則(いわゆる神宮ルール)に対して日本軟球協会は反対を表明したので、同ルールを是とする全日本軟式庭球連盟が十五年に結成され、両組織が反目、それぞれ全日本選手権大会を開催するという奇妙な事態が惹起した。しかし昭和三年には協定が成立し、両組織を解消して新たに日本軟球連盟が設立されたので、各種大会の統一的実施が可能となり、その手初めとして同年七月第一回全国大学高専選手権大会が学苑コートで開催され、学苑チームは単複双方を制し、優勝を独占した。その後、六年の第六回明治神宮体育大会男子大学専門学校ダブルス、八年の第七回同大会の同シングルスで一位となり、九年には関西の雄関学との定期戦を開始した。この時初めて体育会より補助金を受けて関西地方に赴いたが、十五年には、部長を末高信として体育会準公認の部となり、曲がりなりにも軟式庭球部と名乗れるようになった。

 こうした戦前期の歴史を持つ軟式庭球部も、戦争激化に伴い活動を停止せざるを得ない状況に追い込まれたが、終戦とともに再建に邁進し、二十一年十月に開催された東日本選手権大会ではダブルスで一、二、三位を独占した。また、各校との対抗試合をも復活させ、前記の通り、二十二年正式に体育会の一員となったのである。

三 学生研究会の復興

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 学生の研究会活動もまた、昭和二十年八月十五日以降、再出発した。二十二年四月二十五日の『早稲田大学彙報』は、学生研究会復興の模様を次のように伝えている。

戦争中中絶してゐた学生による学会は終戦後漸次復活し、昭和二十年度には三十四の「学生会」が数へられた。……二十一年九月までに……届出た学生の会は六十団体、そのうち学術研究の学会は三十三団体、其他は趣味懇談の会であつた。同二十二年三月現在で百二団体が届出て、うち学会は五十二団体を算してゐる。

すなわち、終戦から一年半という比較的短い時日のうちに結成された学生の会は、大学当局に届け出られたものだけでも百以上に達したのであるから、敗戦直後という状況を考えれば、特筆すべきであると言い得よう。しかし、遺憾ながらこれら学生の会の活動状態を詳しく伝える資料は多く残存していない。従って、二十四年三月までに復活あるいは新設された学生研究会の活動状況を以下に記述するのに際して、伝統があり、また今日まで活躍しているような会でも、資料の制約により割愛しなければならないものも、一、二にとどまらなかった。

 さて、大学新聞聯盟編『現代学生の実態』には、二十二年七月現在の学生の会として次の諸会が列挙されている。

(1) 学術研究団体

㈠ 文科系統の学会

社会科学研究会、社会政策学会、童話会、政治経済攻究会、民主主義法律研究会、童謡研究会、会計学会、交通政策学会、教育学会、経済学会、経済史学会、玩具研究会、経営経済学会、留易学会、児童文化研究会、保険学会、社会哲学研究会、現代文学会、心理学会、仏蘭西文学研究会、文化協会、漢学会、中国研究会、雄弁会、英語会、ロシヤ文学会、倫理学研究会、婦人問題研究会

㈡ 理科系統の学会

繊維科学研究会、応用力学研究会、技術論研究会、ディーゼル機関研究会、舞台美術研究会

㈢ その他

早稲田大学放送協会、ワセダ・ガーディアン、早稲田大学新聞会

(2) 芸術団体

演劇協会「白鳥座」、芸術座、新文芸協会、ともだち座、学生劇揚

(3) 宗教団体

神道青年会、仏教青年会、学生基督教共助会、基督教青年会(YMCA)、カトリック研究会

(4) 趣味親睦の会

音楽協会、ハーモニカ・ソサイエテー、写真部、音楽同好会、舞踊研究会、吃音矯正会、観世会、喜多会、早大旅行会、虚竹会、金春会、速記研究会、長唄研究会、シーズン俱楽部、映画研究会 (二八―二九頁)

 第三巻にも一言した(七六一頁)如く、大正十五年制定の「学生ノ会ニ関スル規則」は昭和二十年十二月に廃止されたが、同月七日より「学生団体規程」がこれに代るものとなった。この「規程」では、終戦直後の雰囲気を反映して、その第三条に「学生団体設立サレタルトキハ直ニ左記事項ヲ学生課ニ届出ヅベシ。之ヲ変更シタルトキ亦同ジ」とあり、学生団体の設立は全く学生側の判断に任されていて、大学当局はその届出を受けるのみとなった。しかし、こうした在り方は不都合と感じられたのであろう、二十二年三月頃から「許可主義、活動状況ノ報告ヲトルコト、取消シ得ル場合ヲ規定スルコト、会長ノ資格ヲ規定スルコト等」の方針の下に「規程」の改正作業が当局の行うところとなり、五月七日、左の如き「学生の会に関する規程」が制定・施行された。

学生の会に関する規程

第一条 研究修養趣味等のため学生の組織する会で学友会または体育会に属しないものを学生の会と称し本規程を適用する。

第二条 学生の会を設立しようとする者は設立願書に会則を添え学生生活課を経て総長に届出て大学の承認を得ることが必要である。

設立願書の提出期限は毎学年五月中または十月中とする。

第一項の承認は部科長会の議を経なければならない。

第三条 前条の願書には左の事項を記載しなければならない。

名称

目的

事務所又は連絡場所

事業

会計

会員の資格

会長の身分氏名(印)

幹事二名の学籍学年氏名及び住所

他の学校の学生団体及びその他一般団体と聯合又は協力関係あるものはその事実

第四条 研究を目的とする会の会長は本大学の教授又は助教授でなければならない。

その他の会の会長は本大学の専任講師又は職員でも差支えない。

第五条 会長はその会の活動につき一切の責に任ずべきものとする。

第六条 会長は原則として他の会の会長を兼ねることは出来ない。

第七条 会の活動についてはその都度左の事項を学生生活課に届出でなければならない。

会合の日時

場所

目的

外来講師ある時はその身分、氏名

料金を徴収の場合は会計報告

第八条 学生の会にして教室又はその他の施設を利用若しくは提示をなさんとするものは学生生活課の承認を得なければならない。

第九条 会の解散休会の場合は事由を具して学生生活課を経て総長に届出でなければならない。

第十条 会は毎学年に於ける活動の状況を三月末日までに学生生活課に文書を以て報告しなければならない。

第十一条 左の場合の一つに該当するときは大学は部科長会の議を経て会の承認を取消すことが出来る。

一、設立の趣旨又は会長の指導に反したとき

二、本大学の諸規則に違反したとき

三、引続き半ケ年以上に亘り全くその活動をしなかつたとき

附則

本規程は昭和二十二年五月七日からこれを実施する。

 ちょうどこの「規程」が施行された頃、学生諸団体を自治的に統合・組織化しようとする動きが学生の中から起って、各学生の会の代表者から成る文化会設立準備委員会が結成され、その第一回会合が五月二十二日に開催された。その後この種の会合が重ねられた結果、九月十九日の文化団体連合会常任委員会の席上、文化団体連合会規約草案が審議・決定されて、翌二十日には、常任委員会の代表三名が大学当局に草案を手交し、その承認を求めた。当局は理事会でしばしば協議するとともに、文化会設置審査委員会を設けて検討を重ねた結果、漸く昭和二十四年一月に至り学生諸団体の連合組織結成を公認することとなり、その名称を文化団体連合会と定めた。二月一日から施行されたその規程は左の通りである。

文化団体連合会規程

第一章 総則

第一条 本会は、早稲田大学学部の学生の組織する各種の文化団体を以て組織し、早稲田大学文化団体連合会と称する。

本会は、早稲田大学学生自治会とは別個独立の組織であつて、その運営は自主的にこれを行う。

第二条 本会は、事務所を早稲田大学内におく。

第三条 本会は、各加盟団体の独立性と自主性を尊重し、相互の連絡と協力により早稲田大学学生の文化活動を促進し、以て学生生活の充実と向上に寄与することを目的とする。

第四条 本会は、前条の目的を達成するために、左の事業を行う。

一、講演会、研究発表会等の開催

二、加盟団体の主催する講演会、研究発表会その他の事業に対する後援

三、他の大学同種の学生文化団体連合会との連絡又は協力

四、大学からの補助金又は寄附金の加盟団体に対する配分、及び他の団体に対する醵出

五、その他常任委員会において本会の目的達成のため必要と認める事項

前項第一号、第四号及び第五号の定める事業の執行にあたつては、その都度大学の承認を経なければならない。

第五条 本会の学外の団体に加盟し、又はこれと協同して事業を行う場合には、大学の承認を経なければならない。

第六条 系統のちがう二学部以上の学生によつて、組織され且つ研究を主たる目的とする団体であつて、学生の会に関する規程により大学の承認を得た後一ヵ年を経過したものでなければ、本会に加入することはできない。但し学友会、県人会、同窓会又は同好会(趣味の会)はこれを除く。

本会に対する加入の諾否は、常任委員会がこれを決定する。

第七条 本会の加入団体は、その目的とする事業の性質に従つて、これを左の三部門に分ける。

一、学術部門

二、芸能部門

三、宗教部門

加盟団体の所属部門は、常任委員会がこれを決定する。

第二章 機関

第八条 本会に、左の機関をおく。

一、総会

二、常任委員 若干名

三、委員長、副委員長 各一名

第九条 総会は、加盟団体の代表委員各一名を以て構成し、最高意思機関として本会の重要事項を議決する。

第十条 総会は、春秋二回定期にこれを開催する。但し常任委員会が必要があると認めるときは臨時にこれを開催することができる。

本会の加盟団体の五分の一以上の代表委員から請求があつたときは、前項の規定にかかわらず、総会を開催しなければならない。

第十一条 総会は、委員長がこれを招集し、議長はその都度代表委員の互選によつてこれを定める。

第十二条 総会は、所属の代表委員の二分の一以上の出席によつて成立し、その決議は出席委員の過半数による。但し賛否同数のときは、議長の決するところによる。

第十三条 常任委員は、各部門毎に、所属の五団体に対して一名の割合を以て各団体の代表委員のうちからこれを選出する。但し三団体以上の端数を生じたときは更に一名を加えることができる。

常任委員の選挙方法は、各部門について所属の団体間の協議によつてこれを定める。

第十四条 委員長及び副委員長は、常任委員会においてその互選によつてこれを定める。

委員長は、会務を総理し、本会を代表する。

副委員長は、委員長を補佐し、委員長が欠けたとき又は委員長に事故があるときは、その職務を行う。

第十五条 常任委員は、総会の決議、その他の会務の執行の責に任ずる。

第十六条 会務は、常任委員会の決議によつてこれを執行する。

第十七条 委員長は、常任委員会を招集し、その議長となる。

常任委員会は、常任委員の三分の二以上の出席によつて成立し、その決議は出席委員の過半数による。但し、賛否同数のときは、議長の決するところによる。

第十八条 本会の会務を処理するため左の部を設け、常任委員をこれに配属する。

一、総務部

二、渉外部

三、事業部

四、経理部

第十九条 前条の各部に部長をおき、部長は、所属の委員の互選によつてこれを定める。

部長は部務を掌理し、所管事項についてその部を代表する。

第二十条 常任委員、委員長、副委員長及び部長は、毎年十月にこれを改選する。但し再選を妨げない。

第三章 経理

第二十一条 本会の会計年度は、毎年四月一日に始り、翌年三月三十一日を以て終る。

第二十二条 本会の経費は、大学からの補助金、他からの寄附金、及び其の他の収入を以てこれにあてる。

第二十三条 大学は、その予算の範囲内において、学生の文化活動を助成するために、本会に毎年度補助金を交付する。

第二十四条 収支の予算及び決算は、総会の議を経て、大学の承認を得なければならない。

収入の予算及び決算は、大学の承認を得た後、これを公示する。

第四章 雑則

第二十五条 本規則を改正するには、常任委員会において起草し、総会及び部科長会の議を経て理事会がこれを決定する。

第二十六条 本規程の解釈に関して疑義を生じたときは、常任委員会の意見を徴して部科長会がこれを決定する。

第二十七条 本会の加盟団体は、常任委員会において毎年十月にこれを審査し、その結果会員の著しい減少、その活動の停止又は不活潑のため、引き続いて本会に加入させることが適当でないと認められるときは、総会の決議によつてこれを除名することができる。

前項の審査の結果は、大学にこれを報告しなければならない。

第二十八条 本会の加盟団体に、本会の秩序をみだし又は本会の体面を汚す所為があつたときは、総会の決議によつてこれを除名することができる。

第二十九条 委員長、副委員長又は常任委員が、その任務に背き又は、これを怠つたときは、総会の決議によつて罷免することができる。

附則

第三十条 本規程は、昭和二十四年四月一日よりこれを施行する。

第三十一条 本会の設立当初の加入団体及びその所属部門は文化会設立審査委員会起案に基いて部科長会がこれを決定する。

本会の設立に必要な事項は、文化会設置審査委員会の委員長の監督の下に、その任命した設立委員がこれを行う。設立委員は、審査委員会の学生委員及びその推薦した学生委員のうちからこれを任命する。

本会は、部科長会が審査委員の委員長の設立に関する報告を承認した時に成立する。

本条の規定は、前条の規定にかかわらず、昭和二十四年二月一日よりこれを施行する。

 敗戦により社会情勢は不安定となり、価値観の一変した事態の最中で、多感な学生はそれぞれの立場で日本の再建を構想していたであろう。科学普及研究会は、小規模且つ短命なものではあったが、村野賢哉が「科学の啓蒙をめざして」(『早稲田学報』昭和四十二年七月発行第七七三号)で、

しずかな学生生活に戻ったわたしは、敗戦の原因が科学技術力の差にあったことを痛感し、精神力に依存して来た神がかり的な国づくりの弱さを思わずにはいられなかった。そして、何人かの友人と語り合って、科学普及研究会なるものをつくり、大学の文化団体として登録し、建築科の今和次郎教授に会長をお願いした。……科学普及研究会の目的は、日本国民の科学知識の普及啓蒙にあったから、生活の科学化をテーマに、大隈小講堂で連続三日間、会費をとって、生活科学講座を著名な科学者を講師として開催したり、生活科学メモをNHKや新聞社に無料で提供したりしたのである。そして、早稲田ジャーナリズムを科学の世界にも進出させようと企図していたのである。 (二―三頁)

と回想している如く、そのような真摯な学生の一人が創設した、時代の精神を色濃く反映した研究会であった。

 「科学」ではなく、社会主義・共産主義に日本の将来を託した学生もいた。社会主義的な思想・運動の勃興は戦後の社会風潮の一つと言えようが、学苑もまたその例外ではなかった。昭和二十年の秋に結成された社会科学研究会は、社会主義・共産主義の研究を目指して作られた研究会の一つであった。二十一年二月二十五日付『早大新聞』には、「現在約五十名の部員を擁し、七つの研究班にわかれ……部員の中に社会党青年部、青年共産同盟に属してゐる者もゐる」との紹介記事が掲載されているが、本会には学問的な研究を専らとするメンバーの他に、左翼政党の指導の下に政治運動に挺身する者も含まれていた模様である。実際、「社研は青共早大班と結び、全国社研連のイニシアチブをとつて、左への急ピツチな転回線をえがいた」(『早稲田大学新聞』昭和二十一年十二月十一日号)ような状態にあり、理論と実践の統一という雰囲気が横溢していたものと思われる。社会科学研究会の活動の中で刮目すべきものを挙げれば、二十一年三月十五日から四月五日まで、学苑学生は勿論、一般の人々をも対象として開講された人民大学がある。講師には野坂参三・風早八十二・羽仁五郎の三名が招かれ、聴講料は一般・学生ともに十円、本会会員は五円であった。また同年秋には、立教大学教授宮川実を講師とする『資本論』研究の公開講座が始められた。その第一回は十月二十五日で、参加者は四十九名であった。講義終了後、本会幹事が「民主々義革命の途上に今般『資本論』が再刊されるのを機会に研究会開催の運びとなりました。……真剣に取つくんで行く人達と最後迄やつて行きたい」(同紙昭和二十一年十一月一日号)と決意の程を述べた。この公開講座は二十二年中続けられた模様である。この他二十一年には、十一月十二、十四、十六の三日間に亘り行われた津田左右吉の講演(四二六頁参照)に対する公開批判会が十一月十八日に開催されている。二十二年の新学期には会員数も百三十余名に達し、新しく日本資本主義発達史についての講座を設け、夏には河上肇の『経済学大綱』の研究会を開いた。また、この年には、理論的な研究と並んで農村や中小企業の実態調査をも実施した。翌二十三年には、日本経済機構研究所の浅田光輝を講師として農業における資本主義の発達をテーマとする講座を置き、秋には日本国家独占資本主義の構造と経済学の原理を研究する二つのゼミナールを開講した。また、九月三十日には民主主義科学者協会早大班との共催でファシズム講演会を大隈講堂に開催、浅田光輝と日本共産党中央委員神山茂夫とがそれぞれ「日本帝国主義の崩壊」、「戦後ファシズムの理論とその戦略」を講じた。更に、年末には林業労働者の実態調査のため奈良県に赴いた。

 戦前以来の古い伝統を誇る幾つかの学生研究会も終戦後程なく活動を再開したが、殊に英語会の立ち上がりは早く、二十年十月にはNHKの放送で英語劇を演じているし、翌二十一年六月五、六日には本格的な復活第一回英語劇公演を大隈講堂に行い、ダンセニー作「宿屋の一夜」等を上演して、「極めて盛況であつた」(同紙昭和二十一年六月十五日号)という。また、英語劇だけでなく、同月末に英文毎日の後援を得て開催された各大学参加の英語演説会にも、学内で予選を行った上で代表者を送った。この他占領下ならではのことであるが、週二回進駐軍の日系将兵と交流し、あるいは夏季休暇などには進駐軍の通訳として働き、生きた英語を学習するとともになにがしかの収入をも得た。このように好スタートを切った英語会は、英語禁止という制約が解除されるという環境の変化もあって、この時期にあって最も会員数の多い研究会となり、二十二年度の初めには、新入会員だけでも千名以上を数えたという。二十三年には、時事通信社主催の英語演説大会に代表を派遣し、また早慶立商四大学による英語劇大会や日米学生会議の復活にも中心的役割を果すなど、順調な活動を見せた。

 前編第六章に触れた如く、昭和十五年に音楽協会に統合され、更に十六年には学徒錬成部音楽隊となった後、二十年四月錬成部廃止に伴い音楽協会として終戦を迎えた音楽関係の諸グループは、戦後も音楽協会という形を維持し、復活したグループも新興のものも共に協会に肩を寄せ合った。音楽協会の活動再開も英語会と同じように早かった。尤もそれは、二十年十月に「管弦楽団は戦前の残余部員で名ばかりではあったが再編成された。しかし部室も練習場もなく教室の片すみや部員の家で合奏を楽しむのが精一杯であった」(『早稲田大学交響楽団史』三二頁)との記述に窺われるように、少数の愛好家が焼け残った楽器を奏でて楽しむ程度のものであったと思われる。しかし翌二十一年になると、「音楽協会は現在約六十五名の会員を擁し、慰問に放送に演奏会に各方面にわたつて活躍を続けてゐるが、同会はジャズアンサンブル、管弦楽団、合唱団、ハワイアンバンドの四部門を以て構成され、その運営は総て学生の手によつてなされてゐる」(『早大新聞』昭和二十一年五月一日号)と記されるような状態となった。殊に四グループのうち新興のジャズアンサンブルは「当時、一世を風靡し、プロからも、高い評価を得」る(中嶋宏「『稲門七夕会』のこと」『早稲田学報』昭和五十七年七月発行第九二三号二九頁)程の目覚しい活躍を見せた。なお、このバンドは同年十月にサンバレー・スイング・バンドと名称を改めている。合唱団も同年五月五日に演奏会を開いたのをはじめとして学内外の演奏会にしばしば参加し、二十三年十一月三日中央大学で行われた関東合唱コンクールでは二位となった。また、ハワイアンバンドも二十一年九月十五日に大隈講堂で開催された在外父兄救出学生同盟主催の日米音楽の集いに出演するなどの活動を見せた。ただ、戦前の音楽会の系統を引く管弦楽団は、この時期メンバーも少く、また一部団員の脱退騒ぎなども重なり、やや沈滞に陥っていた。

 二十一年秋、右の四グループに続いてマンドリン・クラブが復活して音楽協会に加盟し、十一月十五日には、合唱団とともに、サンバレー・スイング・バンド主催の演奏会に賛助出演している。ブラスバンドの結成もちょうどこの頃で、十二月二十一、二十二日の音楽協会主催音楽の集いに参加した。やや遅れて二十二年一月、ハーモニカ・ソサエティが音楽協会に復帰し、早速二月七日大隈講堂で開かれた全関東学生ハーモニカ連盟合同演奏会に登場し、六月八日には定期演奏会を復活した。

 昭和二十年秋、学生雄弁会と弁論部という二つの学生団体が生れた。前者のリーダーであった大谷勲(昭二二法)はこれについて次のように語っている。

言論の自由、学問研究の自由が、伝統的に保証されている早稲田だから、弁の達者な者も多く、いち早く弁論活動が始まった。その中で、まとまった動きをしていたのが、第一高等学院出の、どちらかといえば左派系で理論派の「弁論部」だった。そういう時代に、左翼一筋に突き進む者と、絶えず現実を直視し疑問を持つ、どちらかといえば中庸ですね、いい意味のconservativeを自負するわれわれとがあった。そこでわれわれは、弁論部に対して、雄弁会を復活しようと考え、先輩の渡部辰巳氏を訪ねた。すると氏は、戦争中、雄弁会は、弾圧されて政治同好会という形に姿を変えた。根があるんだからやれ! と励ましてくれた。 (『早稲田大学雄弁会八十年史』 七八―七九頁)

すなわち、弁論部は、当時学生自治会結成運動を推進していた左翼的色彩の濃い学生委員らが中心となって組織したものであり、学生雄弁会はそれと一線を画する学生の集団であった。しかし、二つのグループの並立は好ましくないとして、両者の間で話合いが持たれ、漸く二十一年五月に至り一本化の合意が成立、二十七日正式に合併して新名称を伝統ある雄弁会と定め、会長には教授中谷博が就任した。

 再建雄弁会は「演錬討論研究、演説会と活動を始めた。研究は英国労働党のイデオロギーという読書会から手初めにスタートし」(大谷勲「雄弁会再建の頃」『早稲田大学雄弁会』三一頁)、また第一回雄弁大会を六月六日大隈講堂に開催した。この他、津田左右吉総長就任・大山郁夫帰校促進運動にも参加し、同月十四日の大山帰校促進大会において大谷勲が「瞼の父・大山郁夫先生帰る」と題して熱弁を揮った。更に学外にあっては、十月に開催された朝日討論会に参加し、十二月には全関東大学高専雄弁連盟に加盟した。二十二年に入ると、日常的な活動の他に、第一回参議院選挙に際して選挙応援のため会員が全国各地に赴き、六月には戦後初めての合宿を箱根で行った。二十三年には、三月に第一回地方遊説として埼玉県で演説会を開き、更に七月には一ヵ月に亘って鹿児島遊説を敢行した。大石総一郎(昭二七・一政)はこの遊説について次のように回顧している。

この年の新学期の始まったばかりの頃、一日に一度は必ず雄弁会室を訪れることが日課であった私の耳に入った事は、鹿児島県の旧制中学・女学校ならびに、市町村青年団体への早稲田大学のPRを兼ねて、再建日本を背負って生きる若者達との対話の計画であった。ほとんどの学生が、アルバイトに追われている中で、全費用自己負担、現地の宿泊は地元先輩の御好意に甘える、という学生ならでは出来ぬ虫の良さ。しかし鹿児島往復の旅費、小遣銭の捻出は決して楽なものではなかった。当時、東京―鹿児島間は特急列車で二十数時間の旅で、駅弁もなく、文字通り手弁当を二日分は用意しなくてはならない。着替えの下着類もままにならない状態は、現在の学生諸君には想像も出来ないことであろう。出水、川内そして内陸に入って大口、隼人、加治木と日豊本線に沿って遊説を重ね、ある時はパンツ一つの姿で、荷物を背負って汗だくで何粁かの山道を歩き、露天に湧く温泉に、その疲れをいやしたことも幾度か、やっと鹿児島市入りを果たした。各地の真摯な戦後日本再建に寄せる情熱は、私達の胸に強く響く教えをいただいたものだった。なかでも、男尊女卑的な鹿児島にあって、新生日本の新しい女性としての目覚めに、女学生の目が輝き澄んでいたものであった。

(「胸に響く教え、温かい歓迎」『早稲田大学雄弁会八十年史』 一七四頁)

 戦前、学苑は学生演劇の一大中心地であったが、戦争の終結とともに五指に余る演劇グループが誕生した。中でも先ず挙げられるべきは、劇研究会であり、その下に組織されたともだち座であって、教授河竹繁俊指導の下、在外同胞救済資金募集の目的を以て二十一年五月十、十一、十二の三日間、大隈講堂で菊池寛作「恋愛病患者」と山本有三作「盲目の弟」とを上演したのが、第一回公演であった。当時、政治経済学部二年生であった岡本佳之は本会の活動について次のように語っている。

ともだち座は新派と新劇の弁証法的第三演劇の確立と、演劇と音楽との調和を目指して、そこに本当の意味の日本的新劇を見出さんとした。焼あとの演劇界にバラツクの一つでも建てやうとしたのが私達の言ふ「弁証法的第三演劇」である。

(『早稲田大学新聞』昭和二十一年六月一日号)

活動が軌道に乗ると、二十一年秋、劇研究会は学内の他の劇団とともに演劇連盟の結成に動き、十一月にはともだち座第二回公演として尾崎士郎作「人生劇場」を上演した。また、年末には初めての地方公演として熊谷・佐野方面において「盲目の弟」や夏目漱石の「坊ちゃん」等を上演した。その後、二十二、二十三年と学内での公演を重ね、地方にも赴いたが、二十四年の新学期に至り学生劇場と合併、新たに演劇研究会の名称の下に、「坪内逍遙以来の早稲田の演劇精神の主流を正しく承けついだ劇団として出発することになつた」(同紙昭和二十四年五月一日号)。

 学生劇場は、劇研究会と同様、二十二、二十三年頃、学内外で演劇活動を行ったグループで、例えば二十二年十二月に毎日新聞社主催により開かれた学生演劇コンクールに参加し、また二十三年十一月には大隈講堂において学生の創作劇「若き日の生態」を上演したことが記録されている。

 昭和二十一年四月、「学生の力を以て日本を紹介、世界文化の舞台に乗り出さんといふ意気込で」(同紙昭和二十一年四月十五日号)綜合文化研究所なる学生研究会が結成された。会の名称は間もなく学生文化協会と改められたけれども、その名称からも知られるように、演劇以外にも出版、スポーツ、文芸、美術等の分野における東西文化の融合を目指したものであった。しかし、演劇は最重要活動領域の一つと看做され、芸術座という劇団を組織して、同年十月七、八日、第一回公演が行われ、その後地方公演などにも赴いている。なおその他に、この時期に学苑学生の劇団としては、演劇協会(白鳥座)、こゆるぎ座、研技座、新文芸協会(文芸座)が挙げられる。

四 『早稲田大学新聞』の復刊

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 『早稲田大学新聞』は昭和十九年に入ってからも七回発行できたが、遂に同年五月二十日号に至って、「決戦的趨勢愈々苛烈を極むるの秋本紙は出版整備方針に順応して当号を以て廃刊致すこととなりました」との社告を掲げ、以後沈黙を余儀なくされた。しかし、終戦後二ヵ月、早くも十数名の学生によりその復刊への努力が開始されたことは、当時商学部二年に在学していた田中耕作の左の如き回想により知り得られる。すなわち、昭和二十年十月頃、

学園民主化が叫ばれ、学生自治会が全学的に誕生し、各文化団体や体育会各部が活潑な活動を始めていたので、早稲田大学新聞の復刊は、これら学内の動きを報道し、与論を喚起するためにも緊急な要請だった。だが、金も物も貧しく、総べてが灰燼と化した廃墟からのスタートは容易ではなかった。当座の資金と用紙は大学当局からいただいた金一万円と大学在庫の用紙三―五連である。発会早々の会の貸借対照表を何回もつっ込まれて書き直し、やっとの思いで頂戴した原安三郎さんを始め、多くの校友先輩を訪問して寄付を募り歩いた。後には旬刊、週刊となり一万部まで刷ったが、その頃は月一回三千部がやっとの発行部数。足りないからヤミ紙も買ったが、文部・通産省通いで配給切符の入手に懸命だった。ところが各新聞社とも戦災で印刷能力が乏しく、タブロイド判での発行が精一杯だったから印刷してくれるとこうがない。各社にいる先輩を歴訪し懇願し尽したが、断わられる日が続いた。中外商業新報・朝日・毎日・読売と全部駄目で振り出しに戻り、先生〔会長中島正信〕と同期で草分会のメンバーである中外の工務局長万直次(故人・後に日本経済新聞社長)さんを訪ね、昼は新聞社、夜は代田橋のご自宅と、何度断わられても諦めず必死の思いでお願いし続けた結果、遂に氏も根負けされて渋々ながら承諾された。

若き情熱を燃やし、夢にまでみた念願の復刊第一号の発行は二十一年の二月であった。企てが始って三、四カ月、十名余の学生(池田秀夫・飯森直三・植木良雄・大沢正己・岡野保夫・金原文雄・茂野豊次・寺嶋嘉雄・平野栄一・堀泰一郎・山岸保雄)たちが先生を中心に血の滲むような努力をしたものであったが、やはり先生の指導と尽力は何物にも替え難く大きかった。新聞の題字も戦前と同じ会津八一先生の文字が良いということで、先生の紹介状を持って、新潟に疎開されていた会津先生をお訪ねして書いていただいた。 (「戦後大学新聞復刊と先生」『早稲田の魂 中島正信』 一三〇―一三一頁)

このように資金も用紙も印刷設備もろくにない文字通りの零からの出発であった。しかし、昭和二十一年一月十日理事会が「早稲田大学新聞及ワセダ・ガーディアンノ再刊ヲ許可シ両者ニ対シ年額二万円ヲ限度トシテ補助金ヲ給与スルコト」を決めたのをはじめ、各方面からの援助を得ることができ、遂に同年二月二十五日復刊第一号の発行に漕ぎ着けた。中島正信会長は、記念すべき第一号に「発刊の辞」を寄せ、次のように抱負を語っている。

あくまでも学生のために学生の手で「早稲田大学新聞」を発行すべきである。「早大新聞」は学生の新聞であるが、一方「早大」の新聞たらんとするものである。ここに「早大」といふのは、早稲田大学の当局、教授、職員、学生といふ範囲より出でて校友をも包含したものを指してゐる。従つて「早大新聞」は最大の広範囲に於ける「早大」の機関紙たらしめたいと思ふ。斯る意味で「早大新聞」は早稲田大学と校友との連絡の使命をも果したい希望である。而して「早大新聞」としては、あくまでも客観的立場より凡ての関係現象について正確に事実の実相を把握することに努力し絶対に誤報なきことをモツトーとして行き度いと思ふ。特に学内の諸動向については最も重大なる注意を払ふことにしてゐる。かくして「早大新聞」は真に早大を代表する言論機関として、新生日本に於て全国大学新聞の模範的存在たらんとするものである。それを通じて新日本建設、世界文化のために貢献せんとする野望に燃えてゐることは言ふまでもない。

なお、紙名は当初『早大新聞』であったが、二十一年五月十五日の第六号から戦前の『早稲田大学新聞』に復した。

 このように新聞復刊を計るとともに、新聞会は、東京帝大からの呼び掛けに応じて各大学新聞の連合に協力し、『早大新聞』第一号発刊と同じ二月二十五日に結成された七学校紙を鳩合した学生新聞聯盟の一員となった。しかし、各紙に未だ他校との連携を計っていくだけの余裕がなかったためか、この聯盟は程なく立消えとなってしまった。そこで本会は積極的に聯盟再結成のための斡旋に乗り出し、『早稲田大学新聞』十二月一日号に「大学新聞連聯結成の提唱」と題する「主張」を掲げ、合せて各校への働き掛けを行った。その結果、先ず連聯結成の前段階として金曜会という大学新聞記者クラブが設立され、更に翌二十二年一月二十八日、学苑はじめ東京帝大、慶応、明治、法政など十七校十九紙を統合した関東大学新聞聯盟の成立を見た。そして、三月一日には、二十一校に増加した参加校が学苑の学生ホールに参集して聯盟の発会式を挙行したのであった。

 この頃、学苑における大懸案の一つに、本編第十章に詳述した大山郁夫帰国問題があった。新聞会は帰国促進のため、『大山郁夫全集』の刊行を計画した。『早稲田大学新聞』昭和二十一年七月一日号はこの間の事情を、「新聞会では版権を大山氏の令息聡氏の許可を得て代行、関係各方面と連絡の上、近日中に刊行を具体化する。本全集の純益金は大山郁夫氏帰国後の生活基金とする予定」と伝えている。全集は全五巻、二十二、二十三年に中央公論社から出版されたが、その第一巻に大山郁夫全集刊行会代表長谷川如是閑は「大山郁夫全集刊行の辞」を寄せ、「全体の編輯は市村今朝蔵君が責任をもつてこれに当り、植田清次君がこれを助け、早稲田新聞社の諸君は、原著の蒐集その他庶務一切を担当した。会として、これらの諸君の労を多とする次第である」(ⅰ頁)と記したのであった。

 なお、昭和十一年創刊の英字新聞『ワセダ・ガーディアン』も、五九一頁に記した如く学苑の補助金を得て、二十一年三月十五日に復刊第一号を発行していることを付記しておこう。